戦争特集3部作その2
今回は疎開について振り返ってみましょう。
学童集団疎開とはそもそも子供の安全を考えてのことではなく、総力戦の「足手まとい」になるからと地方の温泉地やお寺などにやられたことです。
東条内閣はなかなか集団疎開を認めなかった。
天皇を父と仰ぎ、国民は子どもも含め、天皇の「赤子」であるという家族主義国家観で、「聖戦」を遂行してきた。
天皇が東京にいるのに子どもが疎開するのはおかしい、というわけです。
だいたい「疎開」という言葉の定義もはっきりしない。
本当は「撤退」とか「避難」というのが正確だけど、この語を使うと負ける事を予想しているみたいなので、疎開というあいまいな語を当てたそうです。
当時疎開といっても、縁故疎開。学校単位で先生が引率する集団疎開。
それから残留組といって町に残った子どももいた。
というのも集団疎開もタダじゃできなかった、一人月十円かかったそうです。
1、 児童生活費 1月分 金十円也
2、 疎開後援会費 1月分 1口五円宛
3、 其の他 1月分 1口五円宛
4、 教育奉仕会費 1円
5、 同 賛助会費 1口弐十銭宛
(すべて1口としても、合計すると月21円20銭必要になる)
当時の21円は軍人の給料が伍長クラスで23円、一等兵が9円でした。
この金額は貧乏な暮らしと世間ではいわれていました。
当時の鶏1羽が闇値で20円したそうです。
学童疎開が閣議決定されたのが、昭和19年6月30日で、開始は八月。
小学校3年から6年生が対象で、東京大空襲のあとになると第二次疎開といって、1~2年生も疎開するようになりました。
ピンハネもあり、面会日も公平ではなく、汽車の切符も割り当て制だっから人脈があってよく来てくれた親と、なかなか来れない親は当然ありました。
面会に行く親に行かれない親がモノを託すけど、子どもに届かないこともあったり、当時日本鋼管の車両部に勤務されていた方は、娘の面会日でなくても、車で疎開先に出向き近くの旅館に子どもを呼び出して差し入れしていたという、親の立ち場によって恵まれた子どももいましたが、ほとんどは悲惨な生活を余儀なくされてました。
あまりの酷さに、子どもを連れ帰る親も多くいたそうです。
そして軍国主義のなかで、疎開先での先生に対する思い出は決していいものではありません。
芋やカボチャの雑炊、コメ粒がパラパラのおも湯。
そんな時先生は焼き魚で白いご飯を食べている。
宿屋の主人とグルになって、生徒に食べさせるコメの横流しをしていたらしい。
当時の先生の顔は二度と見たくないという人もいる。
同期会に呼ばれても出席しない先生もおり、保護者会で糾弾された先生もいる。
当時の事は今でもしこりになって残っているそうです。
毎月の面会日に差し入れは制限がありました、オニギリ2個までとか、しかし大きさに制限がなかったので、大きく握り当時貴重品であった、ゆで卵を具にして持参する親もあったそうです。
お手玉をほどいて虫くさいアズキを炭団で炒って食べ、食べ物だと没収されるから、「お手玉を送ってください」と手紙を書いたら炒り豆をパンパンに入れて送ってきてくれて、うれしかったそうです。
捕まえたシマヘビを食べて下痢したり、アリの大きいのを捕まえて、シッポのところをプチンとちぎって食べる、酢っぱかったけどそれすら食い物だった。
軍国主義の時代ですから、当然手紙はすべて先生が検閲して、不適切な手紙はすべて処分され、親元には届かなかったそうです。
(疎開資料:タウン誌「谷根千」・疎開経験者からの聞き取り)
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