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横浜王 原 三溪

  

横浜のイメージは、赤レンガ倉庫の広場と港の街としてのハイカラ感。そして馬車道や山下公園、横浜中華街は限りないほどの賑わい。

そんな中、横浜駅から少し足を延ばしてバスに乗り込む。30分は乗っただろうか、中華街を通り越して目的の三渓園で下車することにした。

原 三溪(本名 富太郎)1868年(慶応4)- 1939年(昭和14)明治・大正・昭和の前半期にかけて、生糸貿易で財を成した実業家の庭園「三溪園」に訪れるのが目的であった。

なぜ、この場所に行きたかったのか。

彼は、関東大震災で壊滅的な打撃を受けた横浜の復興に、文字通り私財をなげうち、自らの身を挺してこれにあたり、「横浜の恩人」と呼ばれた人だった。言葉は悪いが金持ちが偽善的な思いで金をつぎ込んだわけではない。その証がこの三渓園でもある。「この明媚な自然の風景は創造主のものであって、私有物ではない」と明言し、明治39年から広く一般に公開したのである。

庭園の中は、横浜とは思えないような池や、茶室、広々とした中に寺もあれば三重塔も目に止まる。この自然の描写は三渓自身も愛し文芸の人として事業を手掛ながらも和やかな絵を描く人でもあった。

園の中には三溪記念館があって、入口天井のステンドグラスからは明るい日差しが差し込み、開放的なロビーでは、池を眺めながら心穏やかにくつろぐことも出来る。原三溪に関する資料、三溪自筆の書画、収蔵・展示されている数々の美術品を観るのも実にいいものである。

散策に疲れたなら庭園内の小さな茶屋で休んでみてはどうだろうか。缶ビールにおでんをたのむ、おでんは関東風の煮しまった中に、ちくわぶや卵が顔を覗かせる。ビールの喉越しに加えて甘辛い味付けのだしで煮込む関東風のおでんは江戸っ子にはたまらない。もちもちのちくわぶと、ふわふわのはんぺんがあれば他に何もいらない。

そんな楽しみも重ねながら池の端で魚を狙うシロサギの姿を望みながら三渓園を満喫してみた。

「さて、帰りには中華街で街中華とするとしよう。まずは気道確保してビールを流し込むことにする。」


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