浅田次郎氏の筆跡に思う
コーチャンフォー若葉台店の文具売り場で原稿用紙が取り扱われている。その棚に、作家「浅田次郎氏」の自筆原稿が飾られていた。
「草原からの使者 沙高樓綺譚(さこうろうきたん)」の書き出し部分の原稿である。
総裁選の内幕、莫大な遺産をめぐるカジノの一夜、競馬場の老人が握る幾多の運命。そんな内容の素晴らしさだけではなく、その筆跡の美しい事。
作家の自筆原稿を目にとめる事はなかなかないが、その自筆の美しい作家に出会う機会も少ない。しかも、今の時代に自筆とは実に素晴らしい。
自らの事を書くのは筋違いとは思うのだが、小生の筆先は至って酷い。酷いと言うよりは、汚いと言った方が正解かもしれない。その為パソコンに頼る結果となる。情けない話である。
これでも、ペン字の勉強も行ったし、極力綺麗に書こうと努力もしたのだが、その効果は全く現れない。仕方ないので、パソコンで書くと言う安易な方向に逃げるのであるが、世の中甘くはない。自筆で書かなければならない状況は数多ある。例えばご祝儀袋に名前を書く時などはたまったもんじゃない。この頃は祝儀より香典袋の方が多い年齢にもなっているが、この袋に名前を書くのだが、これが嫌で嫌で。
招待客として呼ばれる場合もある。そんな時受付で芳名帳に名前を書くのだが、これが筆ペンで書くとなると目が点になる。しかも前に書かれた方が達筆であれば、なおの事、「勘弁してくれ」と叫びたくなる。
たかが、自分の名前だがこれが旨く書けない。きったない字で、右肩上がりの歪んだ字は、見るに堪えない。
「あ~」とため息まじりの筆跡となる。
そこで目に止まった浅田先生の字は見事なものだ。原稿用紙のマス目の中を、すらすらと流れる如き、文体の芸術性が文字にも現れるとは、流石に感動ものだ。
出来るなら我家の家宝として、その自筆原稿を頂きたいところだが、そんな願いは届かないのが当然だ。字の美しい人は尊敬に値する。
しかし、実に残念なのが浅田先生は酒を飲まない。下戸なのである。
この大酒飲みの小生とはこの環境が違い過ぎている。つまり全く別世界の先生なのである。
字の美しさを酒のツマミにして飲むしか小生のなすすべが無いのは実に嘆かわしいのである。
この記事へのコメントはこちら