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一杯の蕎麦の味

  

小田急線のとある駅のホームに降り立った。雨は降り続いている。

40数年前、まだ学生時代。駅のホームに並ぶ立ち食い蕎麦屋の食事は最大の喜びであった。月に一度、バイト先の給料が入ると必ずこの蕎麦屋に立ち寄った。

熱い蕎麦汁に固めの麺、揚げ玉がのって、その横には刻み葱。いわゆる狸ソバ。それが旨かった。

学生時代は、金が無かった。当然ではあるが金が無いので、食事は一日一回。朝は食べずにバイト先でたらふく食べ、夜は耐えに耐えて時の経つのをひたすら待ち続けるという、何とも悲惨な飯の事情であった。

唯一の喜びが、この蕎麦の味だった。月に一度、たった一度の御馳走は実に旨かった。

ある時、食中毒になった。バイト先の診療所で受診を受けると「昨日は何食べたの?」と女医さんの優しい言葉、「それがですね。久々に米が買えたんで、マーガリンを飯にのせて醤油を掛けて食ったのです。」と、バターご飯の醍醐味を披露したが、「あんた、そんなもの食べてたら食中毒より栄養失調になるわよ」と言われてはみたが、金が無いので仕方がない。

それでも何とか生きていたのは、酒のお陰だと自負している。食べることを切りつめても友人と酌み交わす酒の繋がりを命がけで続けてきた。そんな仲間はどうしたのだろう。

思い出を連ねれば、無限大に広がる。

そんな一抹の喜びを、蕎麦の味に重ねてみた。

暖簾をくぐって店の中に入れば、カウンターの並びも、薫る蕎麦汁の広がりも数十年前と何ら変わることはない。

「狸ソバ、麺固めでね」注文の声に「は~い」と年配の女性が応えてくれた。ザッザッザッと湯切りする音は、魅力の和音だ。出された丼ぶりには以前にはなかった蒲鉾とワカメが並んでいる。

旨そうだ。眼鏡を曇らす湯気を無視して、サササッと蕎麦をすする。旨いと叫ぼうと思ったが、「ん?」と首を傾げた。「えっ、こんな味だったろうか」決して不味い訳ではない。ただ、あの時代の、あの金が無い時の喜びと合わさった蕎麦の味が、見いだせない。感動がないのだ。

自分の舌を疑った。「あの時の感動が何故蘇らない…。」

蕎麦屋を出ると、雨は上がっていた。雲の隙間から望む日の光は、あまりに眩しくて目頭を押さえてしまった。その時、後ろから声が掛った。

「お客さん。傘忘れているよ」蕎麦屋のおばさんが忘れて立ち去る私に傘を手渡してくれた。その傘と一緒に小さな飴玉が渡された。「何だか寂しそうだから」。

何食わぬ思いで、滑り込む電車に乗り込んだ。窓ぎわに立ちながら窓の外を眺めれば、幾重にも重なる家々の街並みが無感動に流れていく。

手に握られた飴玉を口に頬張ると、甘いミルクの味が広がった。「甘くて美味しい」

何故だか、蕎麦の味に似ていた。数十年前のあの味に、何故だか似ている思いがした。

年配の女性が手渡してくれた優しさは、蕎麦の味の様に心に深く深く広がり続けたのだろうか。


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